宮城芸術文化館について

 宮城芸術文化館の敷地600坪は登米伊達藩家老屋敷であったが、1871年(明治4)の3府72県の廃藩置県により、その1県の水沢県庁が置かれ、現在の敷地はその県庁舎の一部に値します。

 上に建つこの洋風建築物は、1896年(明治29)に建てられ1926年(大正15)に岡本外科医院として改築、さらに1952年(昭和27)に登米高等洋裁女学院となり、約40年近郊の女性に親しまれました。その後25年間荒れ放題の敷地を整備、建物を改修し、美術館として2017年(平成29年)に開館いたしました。

天然スレート(玄昌石)「回し葺き」技法で葺枯れた屋根は、国内最古にして最大とされ、日本近代建築の有形文化遺産として歴史的見地を得ております。

一千年の歴史をもつ登米

 宮城県登米市登米町は、一千年の歴史があり、町には、平安時代後期に安倍頼時が反乱(1051年〜1062年)を起こし、鎮守府将軍の源頼義が鎮圧し、その嫡子義家が建立した登米神社(八幡宮)がある。その後、鎌倉幕府の源頼朝から奥州惣奉行に任じられた葛西氏が北上川流域を統率し、この地に築城して町づくりが始まったとされる。

 江戸時代に入ると1604年(慶長9)伊達政宗の命により、伊達宗直が水沢から登米に移り、代々の当主が北上川流域の開発と城の周辺に侍屋敷、町屋敷を形成していった。

 登米は400年経た今日、自然災害とその時代の幾多の事件に耐えながら、中世から現代にかけて様々な文化を取り込み、小さな城下町の面影を今も残している。